児童書のレビュー・考察ブログ

主に海外の小学生・中学生向け児童書の感想、考察をしています。

赤い十字章―画家ベラスケスとその弟子パレハ  ネタばれなし感想

f:id:g-mccaghrean:20190122210654j:plain

面白さ ★★★★★ 満点f:id:g-mccaghrean:20181205022501j:plain

メッセージ性 ★★★★★ 満点f:id:g-mccaghrean:20181205022501j:plain

 エリザベス・ボートン デ・トレビノ作

 さ・え・ら書房

1966年ニューベリー賞受賞f:id:g-mccaghrean:20190225013007j:plain

内容  スペインの宮廷画家ベラスケスにはファン・デ・パレハという黒人奴隷がいて、彼の仕事を助けていた。ベラスケスによる肖像画も残っている、この知的で忠実な奴隷の生涯を、17世紀スペインのはなやかな歴史とともに描く。

 

―「でも、ご主人さまは、ぼくをどうしようと思っているのかなあ?」

「ぼくが、そのご主人さ、ファニコ。ぼくがおまえのめんどうをみるのさ。ぼくの手伝いをしてもらうんだ。でも、たいしてむずかしい仕事じゃないよ」   -本文より

 

感想  非常に読みやすく、面白いです。奴隷の話というと、重くてつらい物語かと思ってしまいますが、本書はかなり穏やかで平和です(´▽`) ホッ

 

前半は主人公の生い立ちと、元の主人のところからラス・メニーナスで有名な、実在した画家ベラスケスのところに行くまでの旅の話で、後半は、画家のベラスケスのもとに仕える主人公の人生が描かれています。ラス・メニーナス」のベラスケスに赤い十字章を描き入れたのは誰か、というのは有名な謎ですよね。
さて、当時、奴隷にはいろんな制約があり。自由が制限されていましたが、主人公の胸に宿った炎はそれにめげることなく、自分の夢を貫きます。逆境にめげず、自分のやりたいことを貫く主人公が素晴らしいです(゚∀゚ノノ゙パチパチパチパチ 
途中途中に、ベラスケスの絵に描かれた人物たちが登場して、お話にからんでくるのが面白いですね。ベラスケスの絵のモデルたちについては、わからないことも多いようで、その空白を作者さんが想像力で見事に一つの物語としてつなげています。

 

赤い十字章―画家ベラスケスとその弟子パレハ

赤い十字章―画家ベラスケスとその弟子パレハ

 

 なお、中野京子さんの「怖い絵2」という本で、ベラスケスのモデルに対する観察眼の鋭さや、ラス・メニーナスが描かれた当時の時代背景について、面白い見方をしています。

 

怖い絵2

怖い絵2

 

 

史実を調べてみました!以下、ネタバレ注意です。

 

 

 

 

 

題名を失念したけど、ベラスケス関連の本によると、

・「赤い十字章」に登場した、国王フェリペ4世は芸術をこよなく愛した王として有名だったそうです。

・作中に登場する、オリバーレス公爵は豪族の出身で公爵であり、伯爵でもありました。2つの爵位を叙階(じょかいーキリスト教カトリック教会の秘跡サクラメント]の一つで聖職者を任命すること。)したのはスペイン史上オリバーレスただ一人('ε') フーン

・フェリペ4世はイサベル・デ・ブルボンを妃に迎え、6人の子供をもうけるが、5人は若死にし、残ったマリア・テレサはフランスの太陽王と呼ばれたルイ14世に嫁いでいます。

さらにフェリペ4世は1649年に当時14歳のマリア・アナと結婚、のちにマルガリータ王女を含む5人の子供を設けますが、マルガリータ以外は病死などで亡くなります。1661年、フェリペ4世56歳の時に、6人目のカルロス2世が生まれますが病弱で知的障害を抱えていた王子は、統治などできず、後継ぎも残すことができませんでした。

・フェリペ4世は、1665年、カルロス2世王子が4歳の時に亡くなっています。病弱で、教育らしい教育もできない王子を見て、王は失意のうちに死んでいったのかと思うと切ないですね(´・ω・`)

・ベラスケスが宮廷画家になったのは24歳の時。オリバーレス公爵はベラスケスほど「真に迫った」絵を描ける画家はいないと述べたそうです。

 

ベラスケス関連の書物もあさってみました!太字の斜体は私の感想です。

 

ディエゴ・ベラスケス」 ノルベルト・ヴォルフ作 タッシェン・ジャパン(株)

「ベラスケスの最も印象的な騎馬像は、王家の一員のそれではなく、1634年に描かれた「オリバレス伯・侯爵騎馬像」である。彼は伯爵と侯爵の両方の位を持つ国の有力人物で、彼の権力は時には王のそれにも勝るほどであった。騎馬像という、本来国家の統治者だけにしか許されない姿で自分自身を描かせることで、オリバーレスは国王に自らを印象付けたのである。」  p40~42より抜粋

 

・ベラスケスの妻は、夫の死のわずか一週間後に逝去し、夫の傍に葬られた。 「ディエゴ・ベラスケス」 ノルベルト・ヴォルフ作 タッシェン・ジャパン(株)p93より抜粋

このへんは「赤い十字章」とは食い違いがありますね。

 

「宮廷人ベラスケス物語」西川和子作 彩流社から

・ベラスケスの二人目の師匠である、フランシスコ・パチェーコは、その工房を芸術アカデミーのように芸術家や政治家が集まり会合を開いたりするのに使っていました。その工房には、本作にも登場するオリバーレス伯公爵もいたそうです。 

 

●そしてオリバーレス公爵とベラスケスには知られざる繋がりが・・・! 

ベラスケスはわずか19歳で、師匠パチェーコの娘である16歳のフアナ・デ・ミランダと結婚しました。この結婚はパチェーコが決めたものでした。結婚に当たってパチェーコは娘にセビリアに家を買ってあげました。 

1623年、オリバーレス公爵はフェリペ4世の※カーテン侍従フアン・デ・ホンセカにベラスケスを呼ぶようにいいました。オリバーレス公爵としては、自分と同じセビリア出身の者を周りに置こうという考えでした。フォンセカの屋敷についたベラスケスは、その力量を図られるためかフォンセカの肖像画を描くように言われます。それをフェリペ4世の弟の枢機卿フェルナンドが見て「ぜひ宮廷に持っていきたい」となりました。運ばれた絵は宮廷の大公貴族や王族、フェリペ4世に見られ、高い評価を受けて「王と王弟たちの肖像画を描く様に」と命令されました。

1627年、フェリペ4世は宮廷画家たちによる絵画コンクールを開催します。ベラスケスは3人の宮廷画家と競って見事優勝しましたが、残念ながらその絵は残されていないそうです。優勝者へのご褒美はその時空いていた「宮廷取次官」の地位でした。

※王夫妻の座る移動玉座を、王の入退場に合わせて開閉する名誉ある仕事。王家の人々の宗教的行事や文化的活動に時間配分を、執事たちと連絡を取りつつ決めたりもする。

 

ルーベンスマドリードにやってきたとき、フェリペ4世について述べていました。

「王は、私に感じがよいと思わせる唯一の人物である。もともとの素質として、精神的なものもその栄光も持っている。毎日接しているうちによくわかるようになった。もっと自分自身に自信を持ち、多くを他に委ねることがなければ、どんな環境でも十分に統治できるのに」(p46)

 「赤い十字章」の中の王様の印象そのままですね(^O^)。

 

・1629年、8月10日、ベラスケスがイタリアに出発するときはオリバーレス公爵は餞別に金とフェリペ4世の肖像が刻まれたメダルを渡したとか。(P58)

(・0・ ) ホッホー。ちょっと意外な事実です。オリバーレス公爵は結構気前のいい人だったのでしょうか。

 

●そしてベラスケスはイタリアでミケランジェロの絵などを模写したりして1年半後の1631年の初めにスペインに戻ってきました。(P63)

 ●「赤い十字章」の作中ではニニョという名で登場している、小人の青年の絵について

「フランシスコ・レスカーノという作品で、彼は1634年からフェリペ4世の息子、当時5歳のバルタサル・カルロス王子に仕え始めました。(p119)

 

●フェリペ4世にまつわる興味深い話がありました

フェリペ4世はかねてよりほしかった自身の騎馬銅像を、ピエトロ・タッカという彫刻家に依頼しました。その際、「ベラスケスが描いた騎馬像の絵をモデルにすること」と、「わが偉大さをたたえて馬が後ろ足で立ち上がっている姿にすること」と注文を加えました。当時、後ろ足で立ち上がる騎馬銅像というものはなく、どうやってバランスをとり、馬を立ち上がらせるか悩んだタッカは、ある物理学者に助けを求めました。それが晩年のガリレオ・ガリレイだったのです。ガリレオは計算したものをタッカに送り返してくれ、銅像を作り上げられたのです。こうして銅像は無事完成し、オリエンテ広場には立派なフェリペ4世の騎馬銅像が飾られたのでした。(P132~134)

すごいですね。こんなところに歴史の偉人が!それにしてもフェリペ4世、けっこう自己顕示欲強くないですか(゚-゚;)。

 雄々しいフェリペ4世の銅像

f:id:g-mccaghrean:20190302023823j:plainwikipedia掲載画像 作者Alvesgaspar

●「赤い十字章」でフランシスカの肖像として描かれている絵について

「『扇を手にする女性』は年代について面白い推定が成り立ちます。モデルの着ている襟ぐりがかなり広く開いていますが、こういうファッションはもともとフランスで流行していて、シェブルーズ公爵夫人(フランスの貴族)がマドリードを訪れたことから、マドリードでも大流行したのです。しかしスペイン政府は、このように襟ぐりの大きく開いたドレスは、カトリック信奉(しんぽうーある宗教・思想・教え等を信じてとうとぶこと。信じてあがめ従うこと。)の深い我が国スペインでは好ましくない、一般の女性が着用すべきではないと1639年に「売春婦以外は、襟ぐりの広く開いたドレスの着用を禁ずる」という勅令が出されました。ですからこの絵は、その勅令が出される前までに書かれた、ということになります」(p136~137)

 ベラスケスの娘のフランスシカは1619年生まれらしいので、描かれた当時は二十歳以下ということになります。隣国のヨーロッパでもそんな文化の違いがあるのですね。

 

  • 同書では、「赤い十字章」主人公の「フアン・デ・パレハ」についても触れています。

「フアン・デ・パレハはベラスケスの弟子なのですが、アンテケーラ出身でベラスケスの奴隷だった人物です。(中略)ではフアン・デ・パレハは何をやっていたかというと、顔料をすりつぶして粉状にしたり、画布の用意をしたり、助手の仕事をしていたのですが、優れた画家でもありました。パレハは二度目のこのイタリア旅行に同行し、イタリア旅行中の1650年に「自由人とする」という許可を与えられました。と言っても、今後4年間は逃げずに罪を犯さなければ、という条件のために、本当に自由人になったのは1654年でした。」(P155)

ベラスケスは1599年生まれなのでベラスケスが55歳の時に、フアニコは自由の身になったのですね。自由人になったタイミングも「赤い十字章」とは違いますね。

 

  • 続いて、話はあの「イノケンティウス10世の肖像画」に関する考察になっていきます。

「でも、どうして、ベラスケスは奴隷であり弟子である人物を、こうも丁寧に心を込めて描いたのでしょう。この肖像画を描いてからベラスケスは半年ほど、絵筆を握らなかったと言います。そして、フアン・デ・パレハの肖像画の次に書いた肖像画が、イノケンティウス10世の肖像画だったのです。

そう知ってもう一度教皇肖像画と見比べてみると、どちらも体は斜めで顔は少しこちらを向き、まなざしはしっかりと見るものを見つめています。どちらも額と鼻と頬には光が当たり、顔の右側は暗くなっています。襟元、胸元には光が当たり、右腕は曲げています。イノケンティウス10世の肖像画とフアン・デ・パレハの肖像画とは、かなり構造が似ているのです。

ベラスケスは、イノケンティウス10世を描くために、弟子をモデルにして、いろいろと研究を積んだのです。ベレス・サンチェス等著の「フェリペ4世の宮廷におけるベラスケス」の中で、バケロは教皇がベラスケスの前でポーズをとったことは一度もなかった、と言っています。(中略)たとえ、ベラスケスでも、こんな状況で、意図する肖像画を描き切るのは至難の業でした。機会ある度に教皇の姿を観察して、弟子を描いたりしながら十分に予習をして、モデルがとるべき角度、その角度での衣服の襞、襟、すべてを考え抜いて、一生に一度であろう教皇肖像画に、持てる力を注いだのです。教皇を描くことによって、あらゆる事柄が変わるはずである、それはいつの日か自分を貴族に持ち上げることになるかもしれない、と。それで、フアン・デ・パレハの肖像画は素晴らしいものとなったのでした。」(P156~157)

この2作品にまつわる話は知りませんでした。「赤い十字章」ではイタリアでは関心を持たれなかったベラスケスの才能をしらしめるべく、フアニコが知恵を使って一肌脱ぎ、絵の注文を集めたという風に描かれていますが、本当はこの間ベラスケスは絵を描かなかったのですね( ・ω・))フムフム。

 

  • ベラスケスのイタリアでの恋

同書では、二度目のイタリア旅行でベラスケスは恋人が出来、アントニオという男の子をもうけたという話に言及していましたΣ(・口・)

「この子が生まれた書類も、ベラスケスが乳母に支払っていたことがわかる書類もあると言います。確かにベラスケスはこのイタリア旅行から帰るのをいやがっています。フェリペ4世は、ベラスケスの不在中に二度目の結婚をし、新しい王妃マリアナ肖像画を早くベラスケスに描かせたいのです。また、イサベル・デ・ボルボンとの間の王女マリア・テレサも成長し、お年頃となり、彼女の肖像画も書いてヨーロッパのいろいろな王家に送らねばなりません。(中略)早く帰るように、と大使を通じて何度も催促していますが、その都度ベラスケスは何かと理由をつけて帰国を延ばしていました。最後に王が半ば脅しのような手紙を書いて、ベラスケスはやっと帰ってきたのです。(中略)ベラスケスは二度目のイタリア旅行から帰国後、ますます忙しくなるのですが、1657年に三度目のイタリア行きを希望しています。しかしフェリペ4世は、『二度目のイタリア旅行の際に、故意に帰国を延長させた』という理由からこれを許可せず、三度目のイタリア旅行は実現しませんでした。ベラスケスは小さなアントニオを探してアントニオに会いたかったのです。そして、スペインに連れて帰りたかったのです。

ベラスケスにはできませんでしたが、ベラスケスの忠実な弟子であり、娘婿でもあるマソがイタリアに行き、アントニオを探した、とも言われています。」(p158~160)

 ベラスケスの浮気のうわさがあったなんて知りませんでした!(゚~゚)ふぅん「赤い十字章」ではそのことについては全く触れていませんでしたね。ここに出てくる「マソ」という弟子は「赤い十字章」でフランシスカと恋に落ちるフアン・バウディスタ・デル・マゾことフアンのことですね。義理の母親であるベラスケスの奥さんを裏切って?師匠の隠し子を探すのはフアンにとって、かなり後ろめたかったのではないかと思ってしまいますねσ( ̄∇ ̄;)フランシスカはこのこと知ってたのでしょうか・・。

  • 赤い十字のサンティエゴ騎士団

「ベラスケスはサンティエゴ騎士団に入団することを熱望しました。(中略)

入団については必ずしも明確な規定があったとは言えないのですが、15世紀半ばの1440年、サンティエゴ騎士団の本部が置かれていたウクレスで総会が開かれました。(中略)サンティエゴ騎士団に入団しようとするものは、父方が貴族であること、母方がキリスト教徒であることを証明しなければならない、などど取り決められました。(中略)つまり、初期のころはこの騎士団に入団するためには、キリスト教徒であるのはもちろんのこと、原則貴族の子弟でなくてはならなかったものが、ベラスケスの時代になると「特別許可」が下りれば入団可能である、と少しあいまいな基準となってきていたのです。逆に言えば、どのような経緯を辿ったにせよ、騎士団への入団が認められれば、それは、貴族であることを意味するのでした。

ベラスケスは幸か不幸か、宮廷での地位を昇り続けていましたただ、いくら上り詰めても、由緒正しき先祖代々の貴族とは、まるで人種が異なっているかのようだったのです。生まれが違うということで、当時はそれが当然だったのかもしれませんが、それでも何度も悔しい思いをしてきたでしょう。(中略)『もし騎士団に入れたなら、先祖代々の貴族たちと同じことなのだ』と気が付いたのでしょう。」(p185~188)

 この後、ベラスケスは騎士団への入団を申請し、血統を細かく調べられた挙句、家系の貴族性は認められず、入団不可能かと思いきや王が特別許可の小勅書(勅命を下達する文書)を出してくれたので1659年、11月、ベラスケスはサンティエゴ騎士団の一員になったのでした。(p192)

これはラス・メニーナスが描かれてから約3年後のことでした。

つい面白くて史実を調べてしまいました。裏事情をいろいろ知っていると「赤い十字章」がさらに興味深く読めますね。ここまで読んでいただきありがとうございます!